読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぼっち系クズの日常

生涯社内ニートを目指すアラサーぼっちの日記

コミュ症とコミュ障の違い

ぼっち

コミュ障 は、最初に登場した用語で、コミュニケーション障害の略。

コミュ症 は、コミュ障の後に登場した用語で、コミュ障の誤植か、あるいは「障害」という言葉を権限したニュアンスがある。正式名称はない(コミュニケーション症状とは言わないよね)が、マンガ「古見さんは、コミュ症です」では『コミュニケーションが苦手な症状』と称している。

いずれにせよ、厳密な定義や由来があるわけではない。

以下は私の解釈をつらつらと書く。

「コミュ障」は重い

コミュ障は「障害」という言葉がついているとおり、重めの意味を持つ。たとえば、

「中学生からずっとぼっちで生きてきて、十数年間、まともな対人経験がありません」

「人と喋ろうとする動悸が発作が起きるんです」

など。「経験が圧倒的に不足している」とか「心身に支障が及ぶ」などの重たさがあり、「勇気出して声掛けろよ」では済まないレベル。

「コミュ症」はただの人見知り

一方、「コミュ症」は、もうちょっとライトな意味合いでしかなく、要するに 人見知り である。

人見知りという言葉に自虐性を足したものがコミュ症、だと言えばしっくり来るかと思う。

コミュ障を治すのは簡単ではない

コミュニケーションは、勉強やゲームのように「こうすれば上手くいく」という答えがない。

人によって、場所によって、立場によって、どう立ち回ればいいかは異なるし、同じ人であっても状況が違えば、異なる立ち回りが求められる。非常に感覚的で、高度な作業である。現代の科学技術でも到底再現には至れない程度には、高度なのである。

治したいなら、その感覚が身に付くまで、自らを鍛え続けるしかない。もちろん、心身に支障が及ぶ場合はそれすら容易ではない。カウンセリングなど専門家のサポートも必要だろう。

かくいう私も(軽度ではあろうが)コミュ障であるが、ぶっちゃけ治るとは思ってない。これまでの挑戦してみたが、雲をつかむような感覚だった。

コミュ障は、コミュ障なりの生き方を模索していく方が現実的ではないかと、と今は結論付けている。

コミュ症を直すのは、比較的簡単

要するに人見知りなだけで、障害と呼べるほどのハンディがないのだから、勇気出して経験さえ積めば要領は得られる。

いわゆる高校デビューや大学デビューは、コミュ症が勇気を出してデビューすることである。実際、私もそういう人を何人も見てきた。

中学時は私と同じくスクールカースト最底辺にいたくせに、いっしょまえに背伸びしておしゃれして、無理してリア充グループとつるんでいたあいつら。私はそれを「痛々しい」と見下していたし、リア充たちも同じ評価を下していたことを小耳にはさんだこともあったが、彼らはそれでもめげずに頑張っていた。その結果、いつの間にかリア充になった。いつの間にか彼女がいて……結婚して、子どもがいた。

必要なのは、勇気と、傷ついても進み続ける根気だけなのだ。

後悔

私もあの時、勇気を出してさえいれば、コミュ障にランクアップせずに済んでいたのかもしれない。

かつて私と同じ側にいた同級生たちの、Facebook にアップされたリア充な写真を見ながら、私は一人後悔するのであった。まる。